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うちがわの痛み

これまでの私は痛みを全て他人事として理解していた。本や映画で軽薄な痛みの共有をよそおい、他者と繋がっている気になっていた。ところが今、痛みはいつも私の内側にある。そしてこのことが逆に私を見えなくさせている。私の頭はこれ以上の痛みや説明に耐えられず、自分の内側に閉じこもっている。

生きるとはこういうことでもあるのかと考えている。私はガザやウクライナの現状についても、水俣についても、原爆の悲惨さについても、全体として他者の痛みに無関心になっている。関心を持ちたくとも情報が頭に入ってこない。所詮他者の痛みは他者の痛みでしかなく、自分のことではない。私は醜く、視野は狭く、自分ごとにのみとらわれた生き物であることが病気によって露呈してきた。今の私には想像力が欠落している。というか、そもそも私にはたしかな想像力などなかったのかもしれない。これは決して私が理想としていた生の形ではない。だがこれが今の現実だ。

この痛みを乗り越えたいと思う。だけどきっとそれは難しいのだとも思う。私はこれからずっと、このどんよりとした鉛のような痛みと共に過ごしていかなければならない。これは耐え難い苦痛である。

痛みは乗り越えられない。内包して鈍いながらも、醜いながらも、なんとか歩んでいくのみである。その佇まいや歩みのなかで見えてくる世界があるなら、そこにはたしかな強かさがあるものだと私は考える。そこには華やかさは全くないかもしれない。だけどたしかな生命のあらわれがある。

うちがわの痛みに嘆き悲しんでそこで佇む我ら生命

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