障害を持って生きるようになってから、障害とはマイノリティに限定され理解されるようなものではなく、人の痛みや困難といった普遍的な問題だと感じられるようになってきた。そしてこの世界がいかに「できること」を中心に作られているかということも実感している。何をするにしても書けなければいけない、読めなければいけない、理解できなければいけない、説明できなければいけない、これは選択ではなく必ずやらなければいけない義務として障害および障害者の前に立ちはだかっている。
だが、できることを中心にした世界があるのなら、同様にできないことを中心にした世界もあるのではないか。それを障害者の世界ということができるかもしれないが、実際には障害にもグラデーションがあり多種多様であるから障害者の世界としてまとめあげるには無理があると思う。ただここで言いたいのはできないことは悪いことではない、ということだ。できないことをできることに比べて劣性だとは思う必要はないと思う。ただあることができない、それだけのことなのだから。偏食と同じようなものだと捉えることはできるのではないか。できないことは身体による、ある行為の拒否、別の世界の肯定でもあるのではないか。
できないことから浮かび上がる世界線もある。それは病や障害による多彩な表現の発露である。できないことによってできることが強化されたり、強調されたり場合もあるだろうし、「なぜ私がこんな目に」とできないことや与えられた運命を絶望するような境地にもいたるだろう。そのような、できない世界をどのように名づけたらいいのかは今の私にはわからない。ただ、できない世界を認める、受け入れる、広げることによって、できることにのみ縛られる、この能力主義の世界からは解放されるかもしれない。
また、できないことをできるようになろうと足掻く際に生まれる痛み、困難、障害にもそれ自体には価値があると思う。今はできないことがいつかできるようになることもあるかもしれない。
繰り返しになるが、できないことは悪いことではない。できないということを必死にしている。このできなさによって社会から孤立することはあるかもしれないが、その孤立すらもまた何かを肯定したいと望む姿勢を強化させる原動力になるのではないかと考える。たとえ当事者がそれをしなくても当事者を取り囲む関係者が何かをしようとし始めるかもしれない。何もしなくとも何もしないことも表現になりうるだろう。何もできなくてどうやって生きていくのかという問題はあるが、少なくとも呼吸ができれば、そこから何かは生まれてくるのではないか。
私はできないことを否定する、この世界を変えていきたい。かくいう私もかつてはできることを増やすことが目標だった。だけどもうそのような世界には生きられない。諦めの境地からこの文章を書いているが、私が死んだ後にも誰かに読んでもらいたいと願って書く初めての文章かもしれない。この文章でこの世界の何かが変わることを期待している。これは脱成長論に通じるような、社会科学的な考えではないと思う。ただ単にできなさの、無能力の生命の肯定がしたかっただけで、しいていうなら障害文学という文学のジャンルがあってもいいと思う人の一意見だと思ってくれたら嬉しい。
できることはわずかであってもいい。できないことが多くてもいい。むしろできないことに焦点を当てていく。そんな世界は一体どのようなものになるのか、想像すると少し呼吸が深くできるような気がする。
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