病を得て以降、病とは一体何なのか、ということを考えている。
中井久夫は病を能力であると主張したが、確かに病にはそういう、個人の特性的な一面はあると思う。精神科医の泉谷閑示も『「普通がいい」という病』のなかで病はギフトだと書いていた。新しい人生を始めるギフトなのだという。私はそこまで楽観的にはなれないが、あえて前向きにそう捉えようとする人がいることもわかる。
人気Youtuberの霊能力者は、病を「このままだと死ぬ」という警告であると言っていた。確かにサインのような側面もあるとも思える。また霊能力の次元では病を呪いや憑依と捉えることもできるだろう。これについては何も証明することができないので、これ以上何も書くことはできないが、不思議体験をした、と思っている身の人間としてはこういう次元の捉え方も捨て切ることができない。神の啓示や憑依妄想など、あそこまで不思議なことが起こったのに、なぜ、呪いではないと断言できるのだろうか。スピリチュアルな世界では、病気を感情の表出と考えるらしい。病気になるには理由があると。私はそういう考えにもつい惹かれてしまう。積もり積もった感情が病気として表れた、それはわかりにくいけど心や感情に着目する、一つのあり方だと思う。私も病気になって、なぜか幼少期からの記憶や隠していた過去の気持ちが全て表れてきたので、これも間違いではないのではないかという気がしている。
ここまで考えて、私の現時点での結論としては、病は特性と偶然が重なり合って生まれるイレギュラーな出来事(event)であり、そして傷口なのではないかと思っている。イレギュラーな出来事や傷口が恒常的なものになることもあるだろうし、自然治癒力によってそれらが消えていくこともあるだろう。出来事として病を捉えた場合、無理に排除する必要はないのではないかという気になってくる。またこの出来事をよくするも悪くするも自分と運や環境次第ということになってくる。傷口の場合は下手にぐちゃぐちゃかまいすぎない方がいいし、癒すまでに時間がかかるのも納得できる。
どのような捉え方をしても言えることは、病からしか見えない世界はあるということだ。病を得て私は確実に弱く、醜くなったが、この弱さや醜さこそ私の本質だったのかもしれないとも思えてくる。闘病しながらも私は音楽を聴き、言葉や文章にしがみつき、SNSをやり、ブログを書き、何かを考え、作ろうとしている。それらの行動は私の本質を表していると思う。病は人の本質を露呈させる力もあるのかもしれない。程度の差はあれ、病は重く、人を暗くする。それは深みとして理解されることもある。
私はこれからも病と共に生きていく。その道は険しい。正直に言って別の道がよかった。だけどこの道しかないので、この道を進まなければいけない。嘆きながら、強がりながら、達観しながら、誤魔化しながら、力を尽くして命が果てるまで私は病と共に生きていく。この話には何の結論もまだつけることができない。なぜならまだ終わることができないから。
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