文章を書くためには想像力が必要だ。以前の私は想像力に溢れていて、生きているだけでその場が冒険の地に変わるくらい、色々なことを考え、想像力を膨らませていたから、書くことのネタも尽きなかった。私の世界はキラキラ輝いていた。
今の私は想像力が不足している。これもきっと病気で脳がうまく機能しないせいだ。自分の世界が閉じ込められているのが自分でわかる。私の今の世界は、自分の部屋と実家だけだ。そこに留まって、ただ音楽を聴いて、SNSを見て、人を羨むだけの日々を過ごしている。動けないことは想像力も奪ってしまうことなのかもしれない。
ただこんな風に過去の自分と比べて、今の自分を卑下するのにも飽きてきた。想像力を取り戻すために、今できることをやってみる。それは悪いことではないのではないか。例えできることが少なくても足掻いてみる。音楽を聴きながらでも、想像力を膨らませることはできるのではないか。
今の私の状態はきっと、思考の貧困という症状になる。この症状をよくする方法はどこにも書いていない。でもきっと作業療法のように、何か作ってみるというのは脳にもいい刺激を与えて、想像力を回復させる助けになるはずだ。
なぜ私は思考の貧困という状態に陥ってしまっているのだろうか。言葉が出てこないのも、考えが出てこないのも、なぜなのか、脳のどこが損傷しているのかわからず、解決策も分からないままだ。この状態は私に方向性を見失わせ、私を暗くする。
今は、言葉を取り戻すように、言葉を使っているようなところがある。辞書は使わなくなったが、表現を一つ一つ取り戻しているような気分でもある。私の今の表現には、病前のような細かさや華やかさはない。だけど今は地べたに座り込んで書いているような切実さがあるようにも思えている。綺麗事の文章は一切書けなくなった。
想像力も世界に対する視野の広さもなくなった私だが、何かに対する興味はまだある。意欲も陰性症状にしてはある方だろう。そこに活路を見出したい。動けなくても、動いている人の世界を見ることで、想像力を膨らませることはできる。人と人は、比較する以外にもそうやって繋がることができる。
わかりやすい回復の物語を、私は描くことができないでいる。回復の兆しは表れず、変わり映えのない日々を繰り返す日々が続いている。だけど人の話や人の物語に自分の心情を重ねることはできる。これから私ができるリカバリーのための物語は、自分を信じ切る、人を信じ切るところから始まるのかもしれない。想像力を閉じ込められた自分でも、紡げる物語はきっとある。それを毎日探し続けている。
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