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愛を忘れたものたち

エーリッヒ・フロムの『愛するということ』は長年私のバイブル的存在だった。

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学部のゼミで読んでから、何度も読み返し、愛するということの困難さと尊さを学んだ。

だけど今の私は愛する力が衰えていると感じる。以前は日常のあちこち、人間関係や自然の中に愛は潜んでいて、そこから愛を伝えることができると思っていた。かつての私は愛に溢れていた。だが今、私の中に潜んでいるのは愛というより懐疑心だ。人に嫌われているという懐疑心で心が一杯になり、自分に自信が持てないでいる。人に攻撃をしたり仕事を辞めたり、自分が自分で信じられない、そう思うことを何度も繰り返したからだ。

恩師からは今できること、食べることや辿々しく文章を書くことに感謝するようにと言われた。今の私はそれができない。感謝ができない。この人生を恨んでいるからだ。食べることや辿々しく文章を書くことはできて当然だと思ってしまうからだ。恩師からはそれが病気だと言われた。そうなのかもしれなかった。だけどそんな小さなことに感謝できる心を育てることもできなくなってしまってきている。

今の私は、犯罪を犯す人の気持ちがわかる。自分で自分がどうにもならなくなって人を傷つけてしまう人の気持ちが痛いほどわかる。そしてこの世で愛を受けられる人は限られているということ、愛も能力や才能によって決められるのではないかということも、罪を犯した人間には愛する権利も、愛される権利もないのかもしれないと思ってしまうのである。

今の私は、自分に自分で暴力を振るっているように感じる。自分で「こんな自分じゃダメだ」「こんな自分じゃ愛されない」と常にダメ出しをし、今の「何もできない自分」を本当に抱きしめてあげる、愛してあげる、許してあげるということをしていないのだ。私は今この文章をまたパジャマ姿で書いている。今の私は服すらろくに着替えることができない。

かつての私になくて、今の私にあるもの、それは苦しみ、負の感情だと思う。今の私は苦しみとともに生きている。私の人生はこんなはずじゃなかった、そう後悔している。この苦しみから解放されることは、もうないのかもしれない。だとしても私はきっと一生、愛に、光に、良きものに憧れてしまうだろう。もはや愛し方もよく分からないまま、生きながらえているにもかかわらず。

ただフロムの言うとおり、愛することが知ることに通ずるならば、私は人を知ることによって愛することを復活させることができるのかもしれない。頭がうまく働かなくなった今、知ることすらハードルが高くなってしまったが、ゆっくり少しずつ、亀のような歩みでも知ることを諦めないでいたい。そこにしか今の私にとっての光はない。知ること、そこを諦めたくない。

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