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文化的な最低限度の生活

生きる権利と言われるが、やはり、ただ生きるだけでは不十分ではないだろうか。やはり、どう生きるかが重要なのだと思っている。私がそうだからだ。ただ呼吸をしているだけでは飽きてしまってどうにもならなくなるからだ。

今の私には、憲法が保障する文化的な最低限の生活も送ることができない。気軽に外出することができないし、以前のように気軽にものを考えることもできない。できないことを考え出すと、とても辛い気持ちになる。

でも、そのように考えると、一体文化的な最低限度の生活をしている人なんてどれくらいいるのだろうかという疑問が出てくる。SNSでは充実した生活が共有されているが、実際にはSNSに表れてこないような真っ暗な闇があるのだろうと思う。私はTwitterで闘病垢をやっているが、その闘病垢にも浮上できないくらいに病んだ人たちもきっと沢山いるのだ。書くことができること、言葉を発することができるのは力だからだ。「死にたい」すら書けない人たちは沢山いるはずだ。

ただ生きているだけで偉い、という言説も多いが、私はそれは本当なのか疑問を持っており、まだ結論が出ていない。どんな形であっても生きていればいいというのは、本当なのか?私たちは生を美化しすぎているのではないだろうか。私は安楽死も尊厳死として捉えることができると思っている。安楽死の可能性を消さないでほしいと思うのは今の私の立場だ。本当に追い詰められ、死にたいと思った人間にだから分かる境地はあると思う。「死なないでほしい」という言葉は一過性のものだ。その人の全人生に責任をとってくれるものではない。

もちろん病気や障害があるから殺していい、というのは絶対に違うと思う。どんな状態になっても生きる権利はあるからだ。恩師は生きることは迷惑をかけることだと言っていた。そうかもしれないとも思っている。だけど生きるということは、文化的なことを営むということでもあり、それができないのは本来ならば許されないことなのではないか。寝たきりの人間も重度障害者も、文化的なことを営めるように社会が作られるべきなのではないか。カフェに行けないなら出張カフェサービスができたり、映画館に行けないならプロジェクターを貸し出したりする、そういうことを国や地域が保障することはできるのではないだろうか。

生きているだけでいい、では足りないと私は考える。全ての人が、生きて、楽しみ、喜ぶ、そういうことが当たり前にできる社会、そんな社会に私は暮らしたい。それは決して欲張りな夢ではないと思う。そのためにも障害の実態に多くの人の理解が得られるようになればいいと願う。

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