希死念慮とたたかう

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希死念慮は去ったと思うとまた出てくるしぶとさがある。私は特に朝が追い詰められる。夜はまだ平気でいられるのだけど、朝に抱え込んでいた気持ちや社会的圧が一気に噴出する。42歳で病気で一人で障害者になって、博士論文という夢も半ばでできなくなり、仕事もクビになり友達や仲間もいなくなって…と自分を責めることしか考えられなくなる。そしてなぜかいつも自然に涙が出てくる。

統合失調症の闘病は希死念慮との闘いだ。無能力の自分といかに付き合うのか、今の私にはグループラインでチャットをしたり音楽を聴いたりすることしかできない。私は過去未遂をした経験があり、どう足掻いても、もう自分の手では死ねないとわかっている。だから行動も起こすことはないが、それでもODをしたり苦しまないでこの人生を終えたい、と思うことはまだある。

まだ寝たきりではないが、映画も観れない、本も読めない、整理整頓も身だしなみも整えられない、人間としてあるべき姿からかけ離れた生活で生きていくのは、とても退屈で苦しいことだ。嘘だと思うのなら一度この状態になってみたらいい。苦しすぎて、未遂をしてしまうくらい追い詰められてしまうと思う。

それでも希死念慮は前ほど出なくなった。おそらくすきゾ!でかかわった人たちからの言葉のおかげで、病気を受け入れはじめているからだと思う。私はまだ統合失調症という病気をポジティブに捉える能力も才能もない。それくらい私の陰性症状と認知機能障害は重いからだ。だけど統合失調症になったことで、自分が大きく変わったことは確かだった。この変化をどう表現していくのかがこれからの課題だ。

一つには闘病記として公開することがある。闘病記は身バレしないような形で出す予定だが、最悪、身バレしてもいい、とすら思うところがある。被害者としての自分を知ってほしい、この病気の不思議さに驚いてほしいという気持ちがあるからだ。でも誰も読むことのない闘病記になってしまうかもしれない。

あとは、下手なりに、こうして文や絵で表現していくことをやめないことだ。たとえ自分が表現できなくても、作品鑑賞を通じて他者の表現に共感することはできる、とにかくアートを通じて社会との接点を持ち続け、ことばを使い続けること。それはできると思った。

神は私を障害者にした。それにどんな意味があるのか、私にはまだわからない。だけどこの障害を自分の痛みとして深く愛しているとも思う。簡単には割り切れない思いがここにあり、その思いが今日も私を生の方向へと導いている。私は病気で壊れたが、壊れた私が生き続けることは、この世界の普通を変える、ある意味にはなっているのだと感じる。みんな、とにかく死なないでいよう。

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