できないことが増えて私は自分を障がい者だと実感することが多くなった。病前の私はずっとできることを増やそうと思って生きてきたから、かなり能力主義だったのだと思う。人と比較していたわけじゃないけど自分のなかでゴールを決めて、そのゴールに近づくように生きてきた。
だから障がいを持つようになって、集中力、記憶力、理解力、言語能力などが低下した時は本当にショックだった。生きている意味がない、そう感じてしまった。上だけ前だけを見ていた自分の人生を変える必要性にぶち当たった。同じ統合失調症でも認知機能障害がない人もいるのになぜ私だけ?と神を何度も恨んだ。何度も、だ。
だけど今は、できなくてもいいのではないか、そういう気持ちになってきている。私は今呼吸をすることはできている。食事をとることはできる。それで生きていける。十分なのではないかと思いはじめている。
労働力としての自分の価値が低くても、私たちはそれだけのために生きているわけではない、生きるために、ただそのために生きているのだ。できなさのなかで生きているのだとも言っていいかもしれない。できないことを人間性だと思っていけばいい、わからないこと、うまくいかないことはそういうものだとして、流していけばいいのだと思う。それよりも存在し続ける、下手でも馬鹿でも表現し続ける、そこにこそ人生の醍醐味があるように感じる。
私たちは必要な存在だ。私は自分を自分で必要だと感じる。たとえ周りが私を不要だと言ったとしても、ここまで生きてきて、今も生き続けている自分を尊い存在だと感じる。それはどんな状態であっても関係ない。ただここにいること、居続けること、それこそが愛の証明で、希望なのだと痛感している。
それは障がいをもっていても同じことだ。いや、むしろ、障がいを持つからこそ、生きることが、生き続けることが、大きな、かけがえのない価値になるのだと思う。誰しもが障がい者だと唱える人もいるように、私たちは生きながら様々な困難と向き合っている。その困難とどうにかかかわりながら、唯一無二の自分の人生をつくりあげていく、そこに全てがあるように思えてならない。
健常者、健康に対する憧れみたいなものはあり続けるかもしれない。でも私は健常者が、障がい者より良い存在で価値がある、とは思わない。「健常者」にはわからない、見えない世界も沢山ある。そして障がい者の苦悩や困難は、誰にも奪えない、かけがえのない経験だ。
うまく書けなかったけど、私たち障がい者は必要な存在だ。たとえ排除されたとしても、私たちは存在し続け、息をつづけ、新しい経験と価値をこの世に残していくことだろう。
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