
土日は浅い希死念慮が出てきた。ふっと「死のうかな」という気持ちが湧き上がってくるのだが、その思いは前に比べるとずっと浅い。私は前よりずっと、苦しまない人間になったのかもしれない。何が私を浅い希死念慮にとどめているのか、それはわからない。
死にたいというなんて罰当たりだというようなツイートを見たが、先祖のことを考えて死ぬと言う言葉を口にしない人がいたらよっぽど高尚な人間だと思う。目の前の辛さに「死にたい」と言う言葉が瞬間の逃げ道を与えてくれる時もある。過去、人に希死念慮を伝えても笑いとばされたことがあったが、その人は本当に思いやりと共感能力に欠ける人間だと今痛感する。
ともかくも今、大事なことは、今の私の希死念慮は深くないということだ。今私は性格が悪くなっても、今、なんとかこの地で生きようとしている。今の私は健常者時代に比べてずっと弱音が増えたし、悪口も増えたし、人の不幸も喜ぶようになった。人の幸せを喜んでいた時の私は、たんなる偽善者だったのだろうか。今となっては別人だ。
性格が悪くなってもいいから、とにかく生きていようと思う。正直生きているだけでまるもうけは大嫌いな言葉だ。そんな簡単なことばで私の生きるための苦労は説明できないし、何もわかっていない、そう感じる。障害が個性だという人と同じくらい、嫌いかもしれない。
私にとって、生きることは、それだけで暴力でもあり、残酷で、だからこそ時々不思議な美しい光を放つもののように思える。
コメント