病気になってからは、何もかもが下手になった。
言葉を紡ごうとしてもよく言葉が出てこない、絵を描こうとしてもよくイメージが出てこない、歌を歌おうとしてもきちんと歌えない、話そうとしてもうまく話せない、そんなことばかりだ。
LINEのやり取りで、双極性障害当事者の友人は「全てがぎこちなくなる気がする」と言っていた。それはきっと正しい。残酷にも病気は私たちをぎこちなくした。
何もかもがエラーになるような状態になった時、人はどうするのだろうか。
私はその時にこそ「描こう」と思った。「そのぎこちなさ」こそ描こうと思った。いや正確には初めは怖くて描けなかった、試しに描いた絵は皆気に食わないものばかりで、自分の描けなさ具合に嫌気がさしたからだ。
私は病前も大きな絵は描けなかった。だけど頑張ってまず251mm×352mmの(A4より大きい)大きな絵を一枚描いてみた。《暴力》をテーマにした絵だ。案の定うまく描けなかった。でもその下手さをあえて恩師に見せてみた。すると恩師は「お世辞抜きで、すごい絵だ」と言ってくれた。自分としては気に食わない絵だったが、確かに、ある表現ではあり、インパクトは出た。私は恩師からの評価がお世辞でも嬉しかった。
私は病前にできなかったことを病後にやってみたとことによって、とにかくぎこちなくていいから、下手でいいから、描こう、描き続けようと思えてきた。模写でもなんでもいいから、自分の作風が変わるまで毎日描き続けてみたいと思った。私の中で描くスイッチが入った。恥ずかしくても、笑われてもいいから描こうと。今の自分にはそれくらいの足掻きしかできないと。
私は今、アートは、できなさ、困難、障害からこそ生まれるのではないかと考えている。そこに根拠はない。だけどなぜかそうなのではないかと感じるのだ。
私はこれから駄作ばかりを沢山生み出すことになるだろう。そうだとしても、それでもいいから、描きたい、色を塗りたい、何かを生み出したい。そういったなんとも言えない情熱のようなものが今の私を突き動かしている。これを私は「陰性症状の静かな創作意欲」と名づけたい。
私は残りの人生でぎこちない絵を描いて、描き続け、そして死にたい。
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