
人と交流するとき、昔はそこに意味を求めていた。意味の交換、交流を自分なりに真剣にしていた。その交流はほとんどの場合、とても楽しかった。対話とか議論とかいったものを、健常者時代の私は真剣にしていた。
障がい者になった今はあまり交流に意味を求めていない自分がいる。意味を求めてもよく理解できない自分がいるし、それよりも音やことばを交換すること自体に価値を見いだている気がする。
災害がある時に、人は大切に思っている人に連絡をして、安否を確かめると思う。私も健常者だった時は多くの人に心配された。病気になって心配してくれる人は減った。それはつまり障がい者になった私は生きていなくてもいいってことなのか?とかつい暗く考えてしまうけど、事実として障がい者になり人が離れていったことはある。私にとっては、障がい者になるということは、社会との接点が弱まることだった。
しかし、障がい者になってから特に、人との交流はつねにいいものというわけではない。傷つけられ攻撃されたりマウントを取られたり、自尊心を損なうことも多い。だけど私は今作業所仲間とのたあいもないやり取りをとても大切に思っているし、軽い交流に癒されることはたしかだ。実感するのは障がい者同士のつながりの方が、内容は軽いかもしれないが、共性が強い気がすること。健常者の交流のように自律した他者同士のやり取りではなく、もっと弱さを前提にした、手と手を取り合うような「家族」のような結束力があるということ。それをセルフヘルプグループ(自助集団)というのかもしれないが、たしかに特徴はある。
今は、人との交流は、年単位で考えて、ゆっくり育んでいきたい。傷つけ合ったり、憎しみあったり、時には存在そのものをないように扱ったり….そんなふうにときに暴力を振るいあいながらでも、自分の魂みたいなものを磨いていくことができれば、それでいいのではないか。そんなふうに思っている。
私はたしかに人との交流を通じて魂みたいなものに傷をつけた。だけど、同時に人との交流を通じて、それはしばしば言葉を介さないものでも、歩いたり、走ったり、土を掘って埋めたり、そんな活動で、自分を磨いた感覚がある。出会った人たちから受けたそれぞれの衝撃、痛みみたいなものを、私はずっと覚えていたい。忘れてもまたふとした時に思い出したい。


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