色々な人たちに書くことを促されて、日々書き続けている。だけど目に見えるような成長ができている訳でもなく、病気で落ちた表現力はそのまま、相変わらずだ。乏しい力で、なんとか今の自分の気持ちを表そうと毎日必死でキーボードを叩いている。
なぜ書き続けることがいいのかは正直分からない。ドラマみたいにわかりやすい変化なんかない。でも能力は上がらないけれど、少なくとも気持ちの整理はできる。たとえばもう決して会うことのできない友人たちへのラブレターを綴った《チグハグな愛》三部作は、本当に書いてよかったと思っている。あれを書いた後、私はもう前のように過去に必要以上に囚われなくなった。やるせない気持ちに形を与えることができたからだ。思い出したい時はあれらの文章を読めばよくなったから、気持ち的に楽になった。それに過去は過去だと思えるようになってきた。
下手か上手いかに関わらず、書き続けると、文章という形が残っていく。それは私の財産になる。たとえば病後であっても、病後1年と病後2年だとやはり私の症状も心もちも異なるので、その様子を知ることができる。フィールドワークで日記が重要な資料になるのもよくわかる。
恩師からは前の文章より衒いがなくていいと言われた。そして平易な真実のことばで綴れと教わった。今の私は複雑でのびやかな文章を書くことができないが、それでも絵本の文のように短文で平易でも胸を打つような文章がいつか書けたらいいなと願っている。
何をするにしても脳の疲れが抜けなくなった私だが、まだ存在している。自分の能力に頼ることができなくなった後でも生命が続いているのが以前はずっと不思議だった。今はこの状態に慣れてきて、希死念慮の扱い方もわかってきたので、辛い時はカフェラテを飲んだり紅茶を飲んだりして、時間の使い方もある程度考えられるようになってきた。相変わらず、すきゾ!の弱音グループには依存している。弱音グループは陰キャになった今の私にとってかけがえのない居場所だからだ。闘病垢であるTwitterでも生きづらさを抱えた人たちとのやり取りを活発にしている。皆それぞれ頑張っているのがよくわかる。
読めなくても、読みたいと思った本は買うようにしようと思った。書くことと読むことは私の生命線だからだ。できなくてもしがみつく、かかわり続ける、そこに意味があると思えてきた。私は言葉を愛しているし、言霊を信じている(信じているが、病気になってから沢山人を罵倒したり悪言を吐いてしまったりしてしまったが、綺麗事だけでは生きていけないのが人間なのではないかとも思う)チグハグな考え方しかできなくなった今でも、そこはずっと変わっていない。私の好きなものはずっと好きなもののままだ。
私は書くこと、読むことによって今日も生かされている。
アレクサンドル・ヘモンの『愛と障害』が届いた。ページをめくってみたい。


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